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何かを応援する、ファンになる、人々の理由は様々だ。カッコいい、歌がうまい、スタイル抜群、ダンスが上手い、演技が上手などなど、みんな何かしらそれに感銘を受けてファンになることが多いとは思う。
ただ、昨今のアイドルファン、俳優ファン、宝塚ファンの中に「共感したい」だけのファンが時折潜んでいるなと思う。
そういう人は自己が定まらないアイデンティティがない人間に多く、アイデンティティを●●のファンというところに置いている、
ファンであるから自分であるし、逆に言えばファンでなかったら自分が何者かわからないのだ。ファンをやっていないと生きている感じがないのかもしれない。
そのため、その人々は常に何かのファンでなければならない。常に何かのファンであると言うことは、なんのファンにもなれないと身体が持たなくなると言うことだ。
自分が何かを好きと言う感覚ほど曖昧なものはない。小学生の恋愛のごとく、好きと思い込むことは容易であり、それが嘘か本当かは本人にもわからないから、誰にもわからない。
何かを好きだということにして、同じものが好きな人とそれの話をして共感を得たい。
共感を得るために何かを好きになったり、周りの人に自分が好きだと思い込んでいるものを勧める。
その勧め方にも2通りある。
一つは、勧められる人間のことを思い、その人の立場になって勧める方法。相手視点がからんでいる。
いつもの行動などからその人を読んで、きっと気に入ってくれるはずだと勧める
二つ目は、私があなたとただ共感したいからとりあえず見て共感してほしいという勧め方。自分視点でしかものをみていないので、独りよがり、自己満足。
もちろん一人で楽しくやるぶんにはどうでもいいが、ただ共感したい人間と何か共通のものを見るのは得てして難しいものだ。同じものを見ているようで違うものを見ている。
いわゆるファンはそのもの自身をみて、いいところに感銘をうけるのが目的だが、もう一方のファンは、目的は誰かと共感しあって、ワイワイやることで自分を感じたい。結果何か食い違いが起こるのである。
逆に言えば、何かを好きになることは自分が空っぽであることから目を背けることができる。宗教なんかもそうだが、どういう自分であるかを決めるのができない人間の指針になることは簡単である。趣味を見つけて鬱病が治るなんてことはこれと同じ状況であると推察する。
欲を言えば、自分自身を保つことを目標として、趣味をしていない自分でもキラキラできるのが一番だ。理想のかたちである。
心に元気がない人は、まず趣味を見つけ、趣味のある自分が全てではない状況にして、自分を見つめ直すことが大切かなと、思う。それができたら、二度と心の病気にはならない。(逆を言えば、心が弱いと無理なんだろうな)